映画「セザンヌと過ごした時間」実話のモデルは誰?映画と比較を紹介

映画「セザンヌと過ごした時間」実話のモデルは誰?映画と比較を紹介
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映画「セザンヌと過ごした時間」は、19世紀フランスを代表する画家ポール・セザンヌと作家エミール・ゾラの友情と決別を描いた作品です。

美術や文学の授業で名前を聞いたことがある人も多いと思いますが、映画を通して描かれる二人の姿はより人間的で、情熱や苦悩が生々しく迫ってきます。

実際の史実を知ってから鑑賞すると、より深い余韻が残るのではないでしょうか。

ここでは映画と実話を照らし合わせながら、セザンヌとゾラの人生の歩み、そして死に至るまでを詳しく紹介していきます。

 

目次

映画「セザンヌと過ごした時間」ポール・セザンヌとは?

映画「セザンヌと過ごした時間」実話のモデルは誰?映画と比較を紹介

ポール・セザンヌは1839年、南仏エクス=アン=プロヴァンスに生まれました。

裕福な銀行家の息子として育ちながらも、美術への情熱を捨てきれず、やがて父の反対を押し切ってパリへ渡ります。

 

挫折と孤独の時代

若き日のセザンヌはサロンへの出品を繰り返しましたが、保守的な美術界からは拒絶され続けました。

当時の作品は暗く重い色彩で、理解されにくかったのです。

周囲から「落選者の常連」と揶揄されることもありました。

それでも描き続けたのは、対象の本質をつかもうとする強い執念があったからでしょう。

私がパリのオルセー美術館で見たセザンヌの風景画は、色面の積み重ねが不思議な安定感を生み出していて、じっと眺めていると時間の感覚がなくなるようでした。

派手さはなくとも、視線を吸い込む力がありました。

 

晩年の探究と最期

セザンヌは晩年にサント=ヴィクトワール山を執拗に描きました。

何十点もの作品に同じ山が登場します。

対象を繰り返し観察し、自らの表現を突き詰めていったのです。

雨の中で絵を描いて倒れたという逸話は有名で、その後肺炎を患い、1906年に67歳で亡くなりました。

亡くなる直前までキャンバスに向かっていた姿勢は、芸術に殉じた人生を象徴しているように感じられます。

 

映画「セザンヌと過ごした時間」エミール・ゾラとは?

エミール・ゾラは1840年にパリで生まれ、幼少期をセザンヌと同じエクス=アン=プロヴァンスで過ごしました。

文学少年だったゾラはやがて作家を志し、新聞記者や編集者を経て小説家として頭角を現します。

 

文学と社会へのまなざし

ゾラの代表作である「ルーゴン=マッカール叢書」は20巻にも及ぶ大作で、産業化や都市化に揺れる19世紀フランス社会を克明に描き出しました。

作品は娯楽というより社会批判の色合いが濃く、読者を揺さぶりました。

小説「居酒屋」で描かれる労働者階級の悲惨な生活や、「ナナ」での娼婦の栄枯盛衰は、当時としては衝撃的だったでしょう。

大学時代に「居酒屋」を読んだとき、酒場の熱気や汗の匂いまで感じるようで、決して気分のいい物語ではありませんでしたが、人間の生きるリアルを容赦なく突きつけてくる迫力に圧倒されたのを覚えています。

 

ドレフュス事件とゾラの勇気

ゾラは小説家にとどまらず、社会正義のために声を上げた人物でした。

1894年のドレフュス事件では、無実のユダヤ系将校がスパイ容疑で有罪にされたことに強く反発し、「私は弾劾する」と題した公開状を新聞に発表しました。

これにより国家から訴追され、国外に逃れる事態になります。

危険を承知で真実を訴えるその姿勢は、文学者として以上に人間としての勇気を示しています。

 

ゾラの死と謎

1902年、ゾラはパリの自宅で一酸化炭素中毒により命を落としました。

煙突の不具合による事故とされましたが、当時の政治的立場を考えると暗殺説も根強く囁かれています。

58歳という早すぎる死は、フランス社会に大きな衝撃を与えました。

ゾラの葬儀には多くの市民が参列し、後に遺体はパンテオンに改葬されました。

文学者としてだけでなく、真実を追求した人物として今なお尊敬を集めています。

 

映画「セザンヌと過ごした時間」実話と映画の比較

映画「セザンヌと過ごした時間」実話のモデルは誰?映画と比較を紹介

映画「セザンヌと過ごした時間」は、ふたりの友情と対立を丹念に描きますが、史実と照らすと随所に演出上の工夫が見られます。

単なる忠実な再現ではなく、物語として観客に伝わるように脚色が加えられているのです。

ここでは青春時代の交流から決裂、そして描かれなかった晩年まで、もう少し深く掘り下げて紹介します。

 

青春の友情の描かれ方

映画では、エクス=アン=プロヴァンスでの学生生活が鮮やかに描かれ、ポール・セザンヌとエミール・ゾラがまるで二人だけの世界を築いているかのように表現されています。

芸術を語り合い、時には女性や未来への不安を打ち明け、どこまでも真っ直ぐに夢を追う姿が印象的でした。

実際の二人は確かに同じ街で育ち、若いころを共に過ごしましたが、映画のように常に行動を共にしたわけではありません。

ゾラは早い段階で文学の世界に関心を強め、セザンヌは父親からの反対を押し切って絵画の道を模索しました。

道は違えど、お互いの存在が「芸術に挑む同志」として大きな支えだったのは確かでしょう。

映画を観ながら、高校時代に一緒に夢を語り合った友人を思い出しました。

進む道は全然違っても、あの時の言葉がいまだに背中を押してくれる。

セザンヌとゾラの関係も、まさにそんな原点のような結びつきだったのではないでしょうか。

 

決裂の理由の違い

映画のクライマックスで描かれるのは、ゾラの小説「制作」による亀裂です。

この小説には才能に恵まれながらも報われない画家が登場し、その姿がセザンヌを思わせました。

プライドの高いセザンヌにとっては、自身の人生を「失敗した画家」として描かれたように感じられたのでしょう。

映画では激しい口論が印象的ですが、史実ではもっと複雑で、手紙のやり取りを通じて少しずつ距離が生まれていったと言われています。

また、セザンヌの性格は非常に頑固で人付き合いが得意ではなく、ゾラの社交的で華やかな生活と対照的でした。

そうした性格の違いも積み重なり、決定的な溝になったのかもしれません。

私が感じたのは、友情の終わりが必ずしも一つの事件で断ち切られるわけではないということです。

小さな違和感が積もり、ある時点で戻れなくなる。

誰にでも覚えのある感覚ではないでしょうか。

 

映画にない晩年の描写

映画は友情と決別に焦点を当てて終わりますが、実際の二人の晩年はさらに劇的でした。

セザンヌはサント=ヴィクトワール山を執拗に描き続けました。

晩年の作品は光の捉え方や色面の積み重ねが独特で、後のピカソやマティスに大きな影響を与えています。

ある日、雨の中で制作を続けて倒れ、その後肺炎を患って1906年に亡くなりました。

まさに絵を描き続けることが命そのものだったことを示す最期でした。

一方のゾラは、ドレフュス事件での「私は弾劾する」で国家を相手に戦った人物です。

真実を求めるあまり敵を作り、1902年に自宅で一酸化炭素中毒により死亡しました。

公式には事故とされましたが、暗殺説も長く囁かれています。

ゾラは死後、フランスの偉人を祀るパンテオンに眠ることになり、国家にとっても欠かせない存在として評価されました。

映画では描かれなかったこの晩年を知ると、友情の決裂もまた異なる意味を持つように思えます。

たとえ絶交しても、最後まで自らの信念に殉じた点で二人は似た魂を共有していたのではないでしょうか。

エクス=アン=プロヴァンスを訪れたとき、セザンヌのアトリエを歩きながら、窓から見えるサント=ヴィクトワール山を眺めました。

静かな景色の中に「生涯を賭けた執念」がまだ漂っているように感じました。

ゾラもまた、正義のために声を上げ続けた姿勢が今の社会運動にも通じていると感じます。

 

まとめ

映画「セザンヌと過ごした時間」実話のモデルは誰?映画と比較を紹介

映画「セザンヌと過ごした時間」は、画家ポール・セザンヌと作家エミール・ゾラという二人の巨人の友情を美しく映し出しました。

実際には意見の違いから決裂し、それぞれ孤独に死を迎えましたが、その生き方は現代においても胸を打ちます。

セザンヌはキャンバスに向かい続け、ゾラは真実を訴え続けた。

表現の形は異なっても、両者に共通していたのは「信じたものを貫く姿勢」でした。

映画を観たあと、セザンヌの絵やゾラの小説を改めて手に取ると、ただの芸術作品ではなく人生そのものの結晶だと感じられるでしょう。

私は鑑賞後にエクス=アン=プロヴァンスの写真を眺めながら、もしセザンヌとゾラが和解して晩年を迎えていたら、どんな言葉を交わしたのだろうかと想像しました。

実話は冷たくとも、映画が与えてくれる余韻の中で、二人の友情は生き続けているように思えます。

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