映画「ボヘミアン・ラプソディ」を初めて観たとき、胸の奥がざわついて、何とも言えない感情に包まれました。
感動という一言では片づけられない、あの「ラストのライブ」に込められた意味。
そして、「触るな」というメモを破り、音量を上げたマイアミの行動に、なぜあんなにも心が動いたのか。
この記事では、映画の終盤で多くの人が感じた「よくわからない」「ちょっと気持ち悪い」といった違和感の正体を掘り下げながら、ラストに込められた本当の意味を考えていきます。
観た後もずっと胸に残るその余韻は、単なるバンド映画を超えた「人間の物語」だったのだと、改めて感じています。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」ラストの意味

クライマックスのライブエイドのシーンで、マイアミが機材の前に立ち、「DON’T TOUCH(触るな)」と書かれたメモを見つめる場面があります。
それは観客にとって一瞬の出来事でしたが、映像が切り替わる瞬間、静かにそのメモを剥がし、つまみを少しずつ上げていく。
この動作が、フレディ・マーキュリーの歌声と会場全体の熱量を爆発させるきっかけになります。
映画を観た人の中には、「なぜそんなことをしたの?」「ルールを破ったようで気持ち悪かった」と感じた方も多いかもしれません。
けれど、あの行動は単なる演出ではなく、音楽の魂を取り戻す象徴のようなものでした。
マイアミはもともと真面目な弁護士で、いつも冷静にクイーンを支える立場でした。
しかし、フレディが音楽を通して命を削るように歌う姿を見て、理屈ではなく感情で動いたのです。
その一瞬、マイアミもまた「クイーンの一員」になった。
「音を上げる」という行為は、ルールを超えて愛を信じる決意そのものでした。
実際のライブではどうだったのか
史実では、この音量を上げたのはマイアミではなく、サウンドエンジニアのトリップ・カラフという人物だったと言われています。
しかし、映画の中であえてマイアミがそれを行うことで、ドラマ的な意味が生まれました。
フレディを支え続けた人物の手によって、クイーンという音楽が「再び世界を動かす瞬間」を迎える。
それがこの映画の核心です。
映画を観ながら、私は思わず心の中で「もっと音を上げて!」と叫んでいました。
あの瞬間は、フレディの声と世界中の人の心がひとつに繋がったように感じたからです。
映画の裏側にある「もうひとつのラスト」
ライブエイドの前、フレディがバンドメンバーに病のことを打ち明けるシーンがあります。
実際には診断を受けたのは数年後のことでしたが、映画ではあのタイミングに設定されています。
それは、音楽と命の境界線を曖昧にするための演出だったのだと思います。
「病を告白する」という行為は、フレディがすべての仮面を脱ぎ捨て、本当の自分で音楽と向き合う瞬間です。
この流れを観たとき、私は一瞬呼吸が止まりました。
フレディはステージ上で歌うことによって、生きている証を刻もうとしていたのではないでしょうか。
あのシーンは、死を意識した人間が最後に見つけた「生きる喜び」そのものに見えました。
現実と映画のズレの意味
映画の中では、フレディがライブエイドを「命の最後の舞台」として挑む姿が描かれますが、現実のフレディはその後も音楽を作り続けていました。
このズレは、事実を歪めるためではなく、映画という「祈りの物語」を完成させるための選択だったのだと思います。
私が印象的だったのは、ライブが終わった後のフレディの表情です。
歓声の中で笑っているように見えるのに、どこか遠くを見つめている。
その視線の奥に、「これでようやく、自分を愛せるようになった」という安堵のようなものがあった気がしました。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が「気持ち悪い」と言われる理由



SNSやレビューを見ていると、「ラストのフレディの表情が気持ち悪かった」という意見も見かけます。
でも私は、あの「気持ち悪さ」こそがこの映画の核心だと思っています。
完璧なヒーローではなく、孤独で、欲望と恐怖の狭間で生きた人間。
その生々しさが、スクリーンの中であまりにリアルに息づいていたからこそ、観客の心を揺さぶったのだと思います。
映画が終わっても、なぜか心が落ち着かない。
感動と戸惑いが同時に押し寄せてくる。
それは、フレディ・マーキュリーという存在が「終わらない人」だからでしょう。
死んだあとも音楽が生き続け、誰かの心を変え続けている。
あのラストは、彼の永遠性を象徴していたように感じます。
音楽の終わりと人間の再生
ラストシーンで響く「We Are The Champions」。
あの歌声を聴きながら、私は涙が止まりませんでした。
勝者の歌でありながら、そこには敗北の痛みも、赦しの祈りも混ざっていました。
フレディが歌う「チャンピオン」は、誰かを打ち負かす意味ではなく、傷つきながらも立ち続ける人への讃歌なのだと感じました。
映画を観る前の私は「クイーン」という名前を知っているだけで、音楽に特別な思い入れもなかったのです。
でも、あのラストを観た瞬間、自分の中に何かが変わった気がしました。
音楽というのは、生きることと同じくらい不器用で、そして美しいものなんだと。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」フレディが残したメッセージ
フレディ・マーキュリーという人は、理解されないことを恐れませんでした。
世界中が注目する中で、自分の生き方を隠さず、ステージの上で表現し続けました。
その勇気が、今も多くの人の背中を押しています。
映画の中でフレディが言う、「俺は普通じゃない。でも、それでいい」。
その一言が、どれだけ多くの人の心を救ったか。
自分を偽ることに疲れている人、自分の「居場所」を探している人にとって、この映画はただの伝記ではなく、魂の共鳴なのだと思います。
ライブエイドの「もう一つの意味」
フレディが最後に歌ったあのステージは、世界中へのカミングアウトでもありました。
「自分のままで生きる」。
その言葉を、音で、姿で、歌声で示したのです。
マイアミが音量を上げたのも、フレディがその瞬間に立ち会うための「助け」だったのかもしれません。
あの一瞬、全員が「解放された」。
会場にいた人も、画面越しの観客も、そしてフレディ自身も。
まとめ
映画「ボヘミアン・ラプソディ」のラストは、ただのライブ再現ではありません。
それは、音楽と人生が重なり合う「魂の再生」の瞬間でした。
マイアミの「触るな」というメモを剥がすシーンは、ルールを破ることではなく、「生きる勇気」を取り戻す象徴だったのです。
フレディ・マーキュリーは、完璧な英雄ではありません。
弱さも、迷いも、矛盾も抱えたまま、それでも人を愛し、音楽を信じ抜いた人です。
だからこそ、あのラストは綺麗すぎず、少し歪で、でも圧倒的に真実味がありました。
観終わった後に胸がざわつくのは、心のどこかで「自分もあのステージに立ちたい」と感じてしまうからかもしれません。
ボヘミアン・ラプソディというタイトルの意味――それは、自由に生きようとした人間たちの詩。
そして、その詩は今も世界のどこかで鳴り続けています。

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