映画「ギャング・イン・ニューヨーク」は、実在のマフィア、ジョン・ゴッティの波乱の人生と、その息子ジョン・ジョセフ・ゴッティ・ジュニアとの親子関係を軸に描かれています。
とはいえ、実際のゴッティの人物像や出来事とはかなり異なる描写も多く、観たあとに「これって実話とどう違うの?」と気になった人もいるのではないでしょうか。
今回は、実際のジョン・ゴッティの生涯と、映画との違いについて、私自身が感じた違和感や感想も交えながら紹介していきます。
映画「ギャング・イン・ニューヨーク」実話のジョン・ゴッティとは?
映画では“カリスマ”として描かれたジョン・ゴッティですが、実際の人物像はもっと複雑で、映画には映らない側面がいくつもあります。
若き日のジョン・ゴッティと犯罪の入り口
ジョン・ゴッティが生まれたのは1940年、ニューヨーク・ブロンクスの貧しいイタリア系家庭でした。
13人兄弟の5番目。お世辞にも恵まれた環境とは言えず、少年時代からストリートギャングの中で育ったこともあって、自然と“裏の世界”に足を踏み入れていきます。
学校は16歳で中退し、その後はトラック泥棒や密輸などで何度も逮捕。
正直、このあたりのエピソードは映画ではかなり飛ばされていて、むしろ“最初からすごかった”風に描かれていました。
でも実際は、いろんな逮捕歴や失敗を経て、じわじわとのし上がっていったんです。
あの「ザ・ドン」と呼ばれるまでのゴッティは、どこにでもいる下積みの犯罪者の一人だったんですよね。
ガンビーノ一家の中で急成長した理由
1970年代後半から1980年代にかけて、ゴッティはガンビーノ・ファミリーの中で頭角を現していきます。
特に注目されたのは、ボスのポール・カステラーノへのクーデター。
ポールが組織の方針として“麻薬取引を禁じる”と言い出したことで、現場を動かしていたゴッティたちの不満が爆発。
最終的にゴッティは、1985年にポールをレストランの前で射殺する計画を実行に移し、成功させます。
これって、アメリカのマフィア史の中でもかなり異例な出来事だったそうです。
表ではビジネスマンとして装っていたポールを、公の場で、しかもかなり大胆に消した。
こんな手法を選んだのはゴッティくらいじゃないでしょうか。
結果として、ゴッティは満場一致でファミリーのトップに選ばれ、ニューヨーク中の注目を集める存在になっていきます。
映画ではこの場面が「かっこいい逆転劇」みたいに見えますが、実際には血で血を洗う権力闘争。裏切りや粛清もあって、ゴッティの周囲はいつも不安定でした。
ゴッティを英雄視したアメリカ社会の空気
個人的に強烈に記憶に残っているのが、ゴッティがマスコミに登場するたびに、まるでロックスターのような扱いを受けていたことです。
ニュース番組では“美談”として報じる場面すらありましたし、近所の住民たちは「ジョンは近所に迷惑をかけない」「殺すのは裏切ったやつだけ」なんて語っていたこともあります。
本当にそれでいいのか?と、今の目で見ると感じてしまいますが、当時のアメリカでは“腐敗した警察や政治”にうんざりしていた人が多かったようで、「マフィアだけど、筋を通すゴッティ」を支持する声が少なくなかったんです。
映画ではそうした社会の空気感がうまく演出されていたと思います。
でも実際には、ゴッティの周りには常に恐怖と沈黙があったのも事実。
近づく者は“義理と命”を引き換えにされていたような、緊張感がありました。
家族の“誇り”と“呪縛”の間で揺れた人生
ゴッティには4人の子どもがいましたが、中でも息子のジョン・ジュニア、通称ジョニーとの関係は複雑でした。
ジョニーは父の期待に応える形でファミリーの一員になりますが、後にFBIの捜査が厳しくなる中で、自ら罪を認めるという選択をします。
この時、父であるジョン・ゴッティは激怒し、「息子として認めない」とまで言ったそうです。
ここが映画と現実の最も大きなズレだと感じました。
映画では「理解し合う親子」「感動的な別れ」みたいにまとめられていますが、実際はもっと冷たくて、突き放したような関係だったそうです。
もちろん、ジョニーの視点に立てば、「父のように生きること」と「自分の人生を取り戻すこと」の間で板挟みになっていたんだと思います。
私はそこに、どんな大物でも背負わずにはいられなかった“家族の呪縛”の重さを感じました。
愛するがゆえに、自由にはなれない。そういう悲しみが、この親子の関係にはにじみ出ていた気がします。
ゴッティ裁判と息子ジョニーの葛藤
1992年、ジョン・ゴッティは最終的に殺人や組織犯罪の罪で有罪判決を受け、終身刑となります。
このとき、内部の証言者として協力したのが、かつての右腕であるサミー・グラヴァーノでした。
私が驚いたのは、この一連の裁判の流れが映画と比べてはるかに緊迫感があり、ゴッティ自身の孤独や絶望がより色濃く伝わってくる点でした。
映画ではやや英雄的な視点から描かれていますが、実際にはマスコミによるヒーロー化と裏腹に、家族の苦悩や組織内部の崩壊が徐々に進んでいったのです。
ジョン・ゴッティの死後の評価は英雄?それともただの犯罪者?
ジョン・ゴッティがこの世を去ったのは2002年。
刑務所での服役中、喉頭がんを患い、最期は手術後に意識が戻らないまま静かに亡くなったと報じられました。
でも、その死は「静か」どころではなかったんです。
少なくとも社会の反応は。
私自身も当時のニュースを覚えています。
アメリカのいくつかのメディアは“最後の本物のマフィア”とか“近代マフィアの象徴的存在”なんて見出しで報じていて、一方で「冷血な殺人者がようやく地獄へ落ちた」といった辛辣な論調も目立っていました。
まさに賛否両論。その評価は真っ二つに分かれていたんですよね。
支持者にとっては“時代のヒーロー”だった
一部の人々にとって、ジョン・ゴッティの死は「カリスマの終焉」と映ったようです。
特に、ニューヨーク・クイーンズ地区やイタリア系アメリカ人のコミュニティでは、ゴッティを「筋を通した男」「地域に貢献した存在」として英雄視する声が根強かったようです。
実際、葬儀には黒いスーツ姿の男たちが何十人も集まり、長い車列をなしてパレードのように出棺が行われました。
その様子を見て「これはまるでゴッドファーザーのワンシーンだ」と言った記者もいたとか。
映画ではゴッティの「家族思い」な一面が強調されていましたが、実際のゴッティも近隣住民にはクリスマスプレゼントを配ったり、葬式代を肩代わりしたりと、いわゆる“良い顔”をしていた面もあったようです。
それが支持に繋がったのかもしれません。でもその裏では当然、暴力と恐怖の力で組織を支配していたわけで、評価が割れるのも当然だと感じます。
家族から見たゴッティの“遺産”
ゴッティの家族、とくに妻のヴィクトリアや娘のヴィクトリア・ゴッティ(同名)からは、「誤解されている」「ジョンは正義感のある男だった」といった擁護の声が今でも語られています。
特に娘ヴィクトリアは作家として何冊も本を書き、その中で父の“別の一面”を描こうとしています。
テレビ番組に出演したときは、「メディアは父をモンスターのように描いたけれど、私にとっては優しい父だった」と語っていたのが印象的でした。
この視点は、映画「ギャング・イン・ニューヨーク」の中でも色濃く反映されていたと思います。
ただし、それが現実に即しているかといえば正直難しいところもあります。
親の罪を見たくないという気持ちは誰にでもあるし、だからこそ彼女の言葉には愛情と同時に、哀しみもにじんでいたように思いました。
法の目から見た“ただの犯罪者”
一方で、FBIや検察関係者など、ジョン・ゴッティの実態を知る者からは、「英雄どころか、完全な冷血漢」として厳しい評価が下され続けています。
「ゴッティの命令で何人死んだと思ってる?」というのは、よく当局者が口にする言葉のひとつです。
組織内部の粛清、裏切り者への見せしめ、警察の目をごまかすための偽装工作。ゴッティが関与した事件の数は数十件に及ぶとも言われています。
映画ではどこか“勧善懲悪”のように描かれていた部分もありますが、実際のゴッティは善人を守っていたわけではなく、組織の都合で動いていたにすぎないというのがリアルな評価です。
ゴッティの死が象徴した“マフィアの終焉”
ゴッティが亡くなった2002年というのは、アメリカのマフィア史にとっても一つの転機だったと思います。
それまでのような“表に出るギャング”は減り、代わりに徹底して隠れるスタイルに変化していった時期。
ゴッティのような「目立つボス」は危険だという認識が、組織内でも広まったと言われています。
いわば、ジョン・ゴッティという存在は「表社会に見せるマフィアの最後の象徴」だったのかもしれません。
今でもニューヨークの街角には、ジョン・ゴッティの写真が貼られていたり、Tシャツが売られていたりします。
その名前は決して消えてはいません。
でもその存在が「何を象徴していたのか」は、人によってまったく違って見えるのだと思います。
映画「ギャング・イン・ニューヨーク」実話と映画の違い
実話と映画の間には、いくつかの明確なズレがあります。
その中で特に印象的だったのは、ジョン・ゴッティの描かれ方です。
映画では、ジョン・トラボルタ演じるゴッティはどこか英雄的に描かれ、息子との絆や家族愛にフォーカスが当てられていました。
しかし、実際には犯罪歴が明確な人物であり、家族を巻き込むような行動も少なくありませんでした。
ジョン・ゴッティの英雄視とその危うさ
個人的に強く感じたのは、映画がゴッティを“誇り高き家族の男”のように描いた点です。
もちろん、家族を大切にする一面もあったのかもしれませんが、犯罪者としての現実を曖昧にしすぎている印象がありました。
特にアメリカでは、実在のマフィアを美化する描写は批判を浴びやすく、この作品も例外ではありませんでした。
ゴッティ裁判とサミー・グラヴァーノの証言
映画では裏切り者のサミー・グラヴァーノが証言台に立ち、ゴッティの終身刑判決につながる描写がありますが、
実際の裁判はもっと泥沼でした。サミーの証言はもちろん重要な要素でしたが、それ以外にもFBIによる盗聴証拠や長年の調査の蓄積がありました。
そのあたりの描写が映画ではかなり端折られていたのが残念でした。
映画の脚色がもたらす影響
この映画が“史実に忠実”ではないことは、多くの視聴者にも指摘されています。
私は、実話をもとにした映画こそ、誠実な視点が求められると思っています。
もちろんエンタメ作品なので脚色は当然ありますが、それでも現実の凶悪犯罪者をヒーローのように扱ってしまうと、その影響は決して小さくないはずです。
映画と現実のバランス感覚
『ギャング・イン・ニューヨーク』は、ジョン・ゴッティという巨大な人物像に魅了されすぎた結果、犯罪の重さや暴力の現実がやや後景に追いやられてしまったように感じました。
視点を変えれば、これは父子のドラマであり、アメリカ社会の矛盾を浮き彫りにする作品でもあります。
しかし、そこにリアルな苦しみや被害者の存在が薄れてしまっては、本来のメッセージがぼやけてしまうでしょう。
実話を知ったうえで観ると見方が変わる
個人的には、映画を観たあとでジョン・ゴッティの実像を知ることで、「この映画は何を伝えたかったのか」という見方が大きく変わりました。
ジョン・トラボルタの演技が悪いというよりも、脚本が人物像を単純化しすぎていて、リアリティを感じにくいのです。
もっと内面の葛藤や、マフィア組織の残酷さ、それでも父親として迷う姿など、深掘りしてくれたら違った印象になったかもしれません。
まとめ
映画「ギャング・イン・ニューヨーク」は、実在の犯罪者を扱っている以上、その描き方には慎重さが求められるはずですが、エンタメに寄りすぎてしまった感が否めません。
マフィアの華やかな側面だけを切り取ると、それに憧れるような受け取り方をされる危険もあるように感じます。
とはいえ、親子の物語としてフィクションと割り切って観れば、それなりに楽しめる作品でもあります。
ジョン・ゴッティという存在の裏側にどんな現実があったのか、それを知ることで映画の見方も変わってくると思います。
私自身も最初は「ジョン・トラボルタが演じるなら面白いかも」と軽い気持ちで観始めましたが、あとで史実を調べていくうちに、映画に描かれなかったリアルな一面の重さに引き込まれました。
そういった視点からも、この作品にはある意味“問いかけ”のようなものが含まれているのかもしれません。
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