映画「メアリーの総て」実話のモデルは誰?映画と実話の違いも紹介

映画「メアリーの総て」実話のモデルは誰?映画と実話の違いも紹介
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19世紀のロンドン。

女性が自らの名で創作することがまだ許されなかった時代に、一人の少女が「怪物の物語」で世界を変えました。

映画「メアリーの総て」は、その少女――メアリー・シェリーの実話をもとにした作品です。

この映画は、単なる伝記ではなく、創作と愛、自由と孤独のはざまで揺れる“ひとりの作家の誕生”を描いています。

ここでは、実際のメアリー・シェリーの生涯と、映画で描かれた物語との違いを丁寧にひも解いていきます。

 

目次

映画「メアリーの総て」実話のモデルは誰?

映画「メアリーの総て」実話のモデルは誰?映画と実話の違いも紹介

メアリー・シェリーは1797年、ロンドンに生まれました。

父は哲学者ウィリアム・ゴドウィン、母は女性解放思想家メアリー・ウルストンクラフト。

生まれてすぐに母を亡くしたメアリーは、母の著作『女性の権利の擁護』を通してその存在を知り、母のように自分の言葉で世界を表現したいと願うようになります。

メアリーは幼いころから空想好きで、墓地で読書をすることを好み、自然や死、再生といったテーマに強く惹かれていたといわれています。

この感覚が後に『フランケンシュタイン』という作品の根底を支えることになります。

 

父の影響と“書くこと”への目覚め

父ウィリアムは、社会改革や政治哲学で知られる思想家でした。

メアリーはその知性あふれる父に強い尊敬を抱きながらも、同時に「父の理想の娘」であることに縛られ続けます。

「理性よりも感情で書きたい」という衝動を、家庭の中ではなかなか理解されなかったのです。

私が映画を観て印象的だったのは、メアリーが机に向かい、夜中に一人で筆を走らせるシーン。

父からの期待と失望の狭間で、それでも言葉を紡ぐ姿に、作家としての“孤独の原点”が見えました。

 

シェリーとの出会いと駆け落ち

メアリーの人生を大きく変えたのが、詩人パーシー・ビッシュ・シェリーとの出会いです。

シェリーは自由恋愛と社会改革を唱える若き詩人で、理想を語る姿に多くの若者が惹かれていました。

メアリーが16歳のとき、シェリーと出会い、やがて二人は恋に落ちます。

ただ、シェリーにはすでに妻と子がいました。

それでもメアリーは、家族や世間の非難を振り切ってシェリーと駆け落ちします。

映画の中で、雨の墓地でシェリーと初めて口づけを交わす場面は、現実のメアリーが“愛と創造の渦”に飛び込む瞬間の象徴のようでした。

 

苦難と孤独の同居した愛

二人の生活は理想的なものではありませんでした。

シェリーは貧困と放浪を繰り返し、クレア・クレアモント(メアリーの異母妹)との複雑な関係も生まれます。

メアリーは子を失い、社会からも孤立します。

映画では、メアリーが娘の死をきっかけに生体電気の実験(死体を蘇らせるショー)に興味を持つ場面が描かれますが、これは実際の出来事に近いものです。

実際のメアリーも、生命や死、そして“人が神の領域に踏み込むこと”への葛藤を強く抱いていたと伝えられています。

 

フランケンシュタイン誕生

1816年、スイス・ジュネーブ湖畔のバイロン卿の別荘で過ごした嵐の夜。

メアリーはシェリー、クレア、バイロン卿、そして医師ジョン・ポリドリとともに“怪談を競い合う”という遊びをします。

その夜に見た夢こそが、『フランケンシュタイン』の原型となりました。

 

バイロン卿とポリドリの存在

バイロン卿は型破りで魅力的な詩人でした。

映画でもバイロン卿が放つ狂気的なエネルギーが印象的に描かれます。

実際のバイロン卿もまた、メアリーに大きな影響を与えた人物であり、ポリドリが後に『吸血鬼』を書くきっかけにもなっています。

まさにこの一夜が、後のホラー文学の原点だったと言えるでしょう。

映画を観ながら、創作というものが「競い合う情熱」や「嫉妬」からも生まれるのだと実感しました。

誰かと語り合い、刺激を受け、傷ついて、それでも書きたくなる。

その熱をリアルに感じさせてくれる作品です。

 

映画「メアリーの総て」と実話の違い

映画「メアリーの総て」実話のモデルは誰?映画と実話の違いも紹介

映画「メアリーの総て」と実話の違いを深掘りすると、単なる「事実と違う部分の指摘」では済まないと感じます。

むしろおもしろいのは、どこが違うのかではなく、なぜ違わせたのかというところです。

映画はメアリー・シェリーという歴史上の人物を“正確に写す”のではなく、“今に通じる形で生かし直す”ことをやっているように見えます。

そのあたりを順番に見ていきます。

 

愛と創造の狭間の描き方

映画のメアリーはとても感情の火力が強く描かれています。

激しく愛し、激しく怒り、激しく傷つき、涙を流し、ペンを走らせる。

まるで感情そのものが電流になって言葉へ変換されるような描かれ方です。

一方で、実在のメアリー・シェリーはもっと論理的で、観察者のような冷静さを持っていたと言われています。

日記には、感情をそのままぶつけるよりも、起きた出来事を記録し、そこから思想的な意味を抜き出そうとする視点が目立ちます。

愛の喜びすら、そのまま「喜び」とは書かず、「この関係がもたらすものは何か?」という問い方をする。

少し引いて世界を見ている感じです。そういう知的な冷たささえ感じさせる記述も残っています。

では、なぜ映画はメアリーをよりエモーショナルに描いたのかというと、「創作は血のにじむような感情から生まれた」という物語を観客が直観で理解できるようにするためです。

映画は2時間で心の変化を見せなければいけないので、観客がメアリーの痛みや怒りを“体感”できる強さにまで増幅して見せる必要があります。

ここで面白いのは、映画がただメアリーを「情熱的な天才少女」としてロマン化したわけではないということです。

あの激情は、「自分の声が奪われ続ける状況」への抵抗として描かれています。

恋愛も、文学も、人生の選択も、当時の社会では若い女性には許されにくかったという現実がありました。

父ウィリアム・ゴドウィンの家でも、出版の世界でも、“メアリーという名前”はいつも後ろに押しやられる。

だから映画は、理性的で分析的な実在のメアリーではなく、「奪われ続ける中で、なお叫ぶメアリー」を前に出したのだと思います。

これは史実からは少し距離がある表現ですが、メアリーという存在の核には近づいていると感じます。

なぜなら、メアリーが『フランケンシュタイン』で描いたのは「存在を否定された声が、それでも『ここにいる』と言いにくる物語」だからです。

言い換えると、映画はメアリーを、まさに自分自身が生み出した“怪物”と同じ位置に置いています。

見世物扱いされた存在。拒絶された存在。

それでも「私はここにいる」と名乗ろうとする存在。

そう考えると、映画の脚色には筋が通っていると感じます。

 

シェリーとの関係性の違い

映画の中のパーシー・ビッシュ・シェリーは、すごく魅力的で、同時にすごく無責任な人物として描かれています。

理想主義の詩人で、自由恋愛を掲げて、束縛を否定し、罪悪感を感じているふりをしながら、自分の欲望と思想を正当化して生きていく。

こういうタイプ、現代にも普通にいます。「常識や制度に縛られないオレ格好いいだろ?」というロマンの形だけを携えた人物像。

その無邪気さは美しくもあり、破壊的でもあります。

史実でもシェリーは「自由恋愛」を強く信じていました。

当時の倫理観から見ればかなり過激な思想です。

ただ、実際のシェリーはそこまで単純な浮気男としてだけ語り切れる人間でもありません。

政治思想、無神論、経済格差への怒りなど、かなりラディカルで誠実な理想も抱いていました。

社会を変えようとしていたのは事実です。

でも、映画はそこをある程度カットしています。

映画はシェリーを、メアリーの運命を揺らす引力として描きたいからです。

メアリーにとってシェリーは、禁断の恋の対象、刺激的な知性、逃げ場、そして試練そのもの。光と影が一人の人間に集まってしまったような存在です。

ここ、映画ならではの整理が行われています。

史実のシェリーには政治的な闘いもあったのに、映画はそれより「メアリーを振り回す詩人」としての側面に集中する。

この削り方は、シェリーのファンから見ると不満かもしれません。

でも、メアリー視点の物語としては理にかなっています。

なぜなら、映画「メアリーの総て」はシェリーの自伝ではなく、あくまでメアリー・シェリーの内面の記録だからです。

映画の中のシェリーは、メアリーの感情を爆発させるための触媒のように描かれます。

その意味で、映画は“二人の愛の物語”ではなく、“メアリーがメアリー・シェリーになるまでの物語”なんだ、とはっきり伝わってきます。

私自身、シェリーが「自由に生きよう」と言いながら、メアリーに痛みだけを置いていく場面はかなり刺さりました。

あれは甘い愛ではなく、創造の燃料としての愛です。

恋が救いではないどころか、恋が傷になる。

そういう痛みを抱えないと書けない言葉が、世の中には本当にあるんだろうな、と思わされます。

 

“女性の名で書くこと”の意味

映画のラスト近くで描かれる「出版交渉」のくだりは、とても重要な部分です。

『フランケンシュタイン』の原稿を出版社に持ち込んでも、「10代の娘がこんなものを書けるわけがない」という態度で扱われる。

そして、「男の名前を表紙に出せば売れる」という打診を受ける。

このくだりはかなり映画的にまとめられていますが、史実にも共通する本質があります。

実際に『フランケンシュタイン』初版(1818年)は匿名で出版されています。

作者名は記載なし。序文だけがシェリーの名義。

結果、世の中では「シェリーが書いたのでは?」という噂が広がりました。

若い女性が生み出した作品とは誰も思っていない。そういう時代でした。

映画はこの冷たい事実を、そのままの冷たさで投げません。

映画は、メアリーが傷つき、怒り、絶望し、それでも出版に踏み切るプロセスを感情として見せてきます。

つまり「奪われた名前」という政治的な事実を、観客が“これは痛いことなんだ”とちゃんと感じられるように、あえてドラマを濃くしているんです。

ここで注目したいのは、映画が「作者の名が奪われること」を、女性の尊厳が踏みにじられる瞬間と重ねている点です。

ただのクレジットの話じゃないんですよね。

名前が印刷されないということは、「存在しない扱い」を受けるということです。

これは文学史の話ではなく、人間の話です。メアリーにとって『フランケンシュタイン』は作品であり、同時に生き延びる手段でもありました。

その命綱みたいなものに名前が刻めないというのは、魂を差し出せと言われているのに、顔は見せるなと言われるようなものです。

映画のラストで書店のウィンドウ越しに「著者:メアリー・シェリー」という文字を見つめる場面は、史実でいうともう少し先の版で起きる変化を一気にまとめた描写です。

つまり時系列としては圧縮されています。

けれども、あのガラス越しの瞬間は本当に美しい。

静かな勝利の場面です。勝利といっても大声で叫ぶタイプの勝利ではなく、ようやく世界と対等な場所に立った安堵のようなもの。

あの表情に、映画全体が向かっていたことのすべてが集約されていると感じました。

もう少し言うと、映画は“作品が世に出る”よりも“名前が世に出る”瞬間をクライマックスにしているんです。

これはドキュメンタリー的な忠実さより、今この記事を読んでいるような現代の観客へのメッセージ性を優先したアレンジです。

つまり「名前を奪われる痛みは、今も終わっていない問題ですよ」ということでもある、と受け取りました。

 

映画の脚色が伝えてくるもの

映画「メアリーの総て」は、恋愛を美化していないことがすごいと思いました。

むしろ恋愛はどんどん腐っていきます。生活は貧しくなる。

愛は疲弊する。周囲からは祝福どころか非難が飛んでくる。

赤ん坊は失われる。どこにも居場所がない。

その極限の場所で生まれるのが“怪物の物語”だと映画は語ります。

この描き方は、史実よりも演出的に整理されていますが、感情の真実には近いのではないかと思います。

『フランケンシュタイン』はSFホラーの原点と呼ばれることが多いですが、映画はその作品を「母親の喪失の記録」「失った命を取り戻したいという叫び」「拒絶された存在への共感」として扱います。

怪物はただの怪物ではなく、愛を与えられなかった存在。

つまり、愛からはみ出した存在です。

そう考えると、映画の脚色はどれも一本の線でつながっていきます。

メアリー・シェリーの心を観客に渡すために、現実をそのまま置くのではなく、現実を“今の言葉”に言い換えて並べ直している。

だから史実からはズレがあるけれど、人物の内側はむしろ近づいている。

そんなふうに感じました。

まとめると、映画「メアリーの総て」は、史実をなぞる作品ではなく、“メアリー・シェリーの魂を現代語訳した映画”だと言えると思います。

愛という名の暴力、才能の孤独、名前を奪われる理不尽、それでも書くという行為。

どれも200年前の話ではなく、今この瞬間の話として響くはずです。

これはそういう映画でした。

 

まとめ

映画「メアリーの総て」は、史実をそのまま再現した作品ではなく、メアリー・シェリーという“ひとりの女性作家の目覚め”を現代的に描き直した作品です。

実際のメアリーは哲学的で冷静な人物でしたが、映画ではその内に秘めた激情と孤独を鮮やかに描くことで、観客が彼女の痛みや希望を“体感できる形”に変えています。

『フランケンシュタイン』という作品は、ただの怪物の物語ではなく、“愛を求めながら拒絶された者”の叫びでした。

映画はその創作の背景にあったメアリーの苦悩を通して、創造とは何か、愛とは何か、そして“名前を持つことの意味”を問いかけてきます。

時代に抗い、自分の言葉で世界を切り開いたメアリー・シェリー。

彼女が生んだ物語は、200年経った今もなお、私たちの心の奥に生き続けています。

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