映画「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」を観たあと、ふと思ったんです。
「これってどこまで本当の話なんだろう?」って。感動的なシーンの数々、医療と笑いの融合、まるで夢のような物語。
でも現実のパッチ・アダムスの人生は、もっと複雑で、もっと人間臭いものでした。
映画「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」はどこまで実話?
映画では、ロビン・ウィリアムズが演じるパッチが、とにかく明るくて機転が利いて、周りの人を巻き込みながら改革を進めていきます。
でも、リアルなパッチ・アダムスはもう少し泥くさい存在だったそうです。
たとえば、映画のなかでパッチが通う医学校は、実在する“バージニア医科大学”という設定になっているのですが、現実には「マーフィー医科大学」でした。
そこでも、講義中にふざけたり笑わせたりするようなことはなかったと、本人が明言しています。
実際のパッチ・アダムスは、学校では極めて真面目な学生だったとか。
それを聞いたとき、正直ちょっと意外でした。
自分の中では、パッチ=陽気で型破り、というイメージができあがっていたので。
でも考えてみれば、いきなり医大でピエロ帽をかぶるような学生がいたら、退学になってもおかしくないですよね。
現実って、映画ほど都合よくはいかないものです。
映画「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」実話との違い
映画の後半では、パッチが心を寄せる女性・カリンが悲劇的な最期を迎えます。
あのシーン、泣いてしまった人も多いと思います。
でも実は、この“カリン”という人物そのものが、フィクションなんです。
現実のパッチ・アダムスには、映画で描かれるような恋人の喪失体験はなかったとのこと。
ではなぜ、そんな設定が盛り込まれたのか? それは、おそらく観客にパッチの孤独や再起の強さを際立たせるため。
脚本の構成としてはわかるけれど、リアルな人生とはズレがあります。
自分も、以前ドキュメンタリーの制作に関わったことがあるのですが、リアルな人物の人生を映画にする際、どうしても“ドラマとしての起承転結”を作らなければならないというプレッシャーがあるんです。
カリンの死も、そういった“映画的な必要性”の中から生まれたのかもしれません。
映画「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」モデルの現在も紹介
映画の主人公であるパッチ・アダムスのモデルは、アメリカの医師、ハンター・“パッチ”・アダムスです。
まずは簡単にプロフィールを見ていきましょう。
ハンター・アダムスの基本情報
ハンター・ドハティ・アダムスは、1945年5月28日にアメリカ・ワシントンD.C.で生まれました。
若い頃は精神的に不安定な時期もあり、自ら命を絶とうとした過去もあるそうです。
それをきっかけに、医療の道へ進むことを決意したというエピソードは、映画の冒頭にも描かれていました。
ちなみに「パッチ」というニックネームは、実際に患者の服を“パッチワーク”のように縫い直してあげたことが由来といわれています。
医師になった背景
ハンター・アダムスが目指したのは、ただ病気を治す医者ではなく、人間全体を癒す“ホリスティック医療”の実践者です。
1971年には友人たちとともに「ゲズントハイト研究所(Gesundheit! Institute)」を設立し、無料で医療を提供する活動をスタートさせました。
この名前、ドイツ語で「お大事に!」という意味なんですよ。
ちょっとユーモアが効いていて、まさにアダムスらしい発想だなと感じます。
現在の活動とゲズントハイト研究所の取り組み
じゃあ現在、ハンター・アダムスはどんなふうに活動しているのか?
映画公開から25年以上が経った今も、アダムスは自分の信じる医療を広め続けています。
世界中で笑いと癒しを届ける活動
2025年現在、アダムスはゲズントハイト研究所の中心人物として、依然として世界中を飛び回りながら活動を続けています。
医師という肩書きにとらわれず、「クラウン(道化師)」の姿で病院や被災地、紛争地域などを訪問し、子どもたちや患者に笑いを届けているんです。
パッチ・アダムス本人は「笑いは医療の一部である」と信じていて、ただのパフォーマンスではなく、真剣なヒューマニズムの実践としてこの活動に向き合っています。
以前、ボスニア内戦後のサラエボや、ロシアの孤児院にも訪問していた話を聞いて、胸が熱くなりました。
現地で泣き出してしまう子どもを、あえて赤鼻のまま抱きしめていたというエピソードも印象的です。
ゲズントハイト研究所の今と夢
研究所そのものは、バージニア州の山中に拠点があります。
長年にわたり“無料で人間的な医療を提供する病院”の建設を目指してきましたが、まだ完成には至っていません。
とはいえ、少しずつ理想に近づけようと、年間を通して医学生や医療従事者向けの研修プログラムを実施しています。
また、ボランティアやクラウン活動に興味のある人たちが参加できる国際的なイベントも開かれていて、まさに「動き続ける理想郷」といった感じです。
正直、商業主義に飲まれていない医療って本当にあるの?
と疑っていたけれど、アダムスの活動を知って「こういう形もあるんだ」と思わされました。
現在のパッチ・アダムスが抱える葛藤と信念
年齢的にはすでに80歳を超えていますが、それでも活動をやめない理由には、強い信念と、たくさんの葛藤があるようです。
ロビン・ウィリアムズへの想い
2014年、映画で自身を演じたロビン・ウィリアムズが急逝したとき、ハンター・アダムスは「彼の死を利用してゲズントハイト研究所の支援をお願いすることが辛かった」とコメントしています。
アダムスにとってロビン・ウィリアムズはただの俳優ではなく、自分の思想を世界に届けてくれた仲間だったのだと思います。
「映画と現実のギャップが生んだ孤独」について語る場面もありました。
「映画の影響で自分を理想化されたけれど、現実の自分は未熟で、理想には届いていない」と話すその姿に、ぐっとくるものがありました。
完璧じゃないからこそ信頼できる、そんな人間くささがアダムスの魅力かもしれません。
“医療は愛”という哲学は今も変わらない
ハンター・アダムスがずっと掲げているのは「医療にもっと愛を」という考え方です。
この“愛”というのは、単なるロマンティックな感情ではなく、行動を伴った愛情、つまり「一人ひとりの痛みに寄り添う姿勢」のことなんですよね。
ある講演会では、「病気を診るのではなく、人間を診よう」と語っていました。
こうした姿勢が、多くの若い医療者たちに影響を与え続けているようです。
私自身も体調を崩して病院にかかったとき、ドクターからただ機械的に処方されるより、ひとこと優しい言葉をかけられるだけで気持ちが楽になったことがあります。
それを“当たり前”にしたいと思っているのが、パッチ・アダムスの人生なんだなと思います。
まとめ
「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」は、笑いと涙のバランスが絶妙な映画でした。
でも今あらためて、現実のパッチ・アダムスの姿を見ると、むしろ“弱さ”こそが彼の強さだったんだなと思います。
人は完璧じゃないし、いつだって揺れながら、迷いながら、それでも誰かのためにできることを探していく。そういう“人間らしい”姿にこそ、希望を感じます。
もしあの映画に感動したなら、次はぜひアダムスの著書やインタビュー、講演動画などを見てほしいです。
そこで語られる言葉は、映画よりもっと複雑で、もっと静かで、もっと心に残るはず。
自分も最近、また見直したんです。「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」。
やっぱり泣きました。
でも今回は、映画の“外側”にいるもう一人のパッチ・アダムスのことを想いながら観ていたので、泣き方がちょっと違いました。
心の奥が、じんわり温かくなるような涙でした。
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